昭和42年08月03日 朝の御理解
最近の流行歌の中に、こんな流行歌がございますでしょう。「逃げた女房に未練はないが、お乳欲しがるこの子が可愛い」何とかという歌手が歌っています。「逃げた女房に未練はないが、お乳欲しがるこの子が可愛い」私は、本当に、この子が可愛いならば私は、逃げた女房ども、円満解決を願わなければいけないと思うですね。いくら未練はないがとなんて、男が言い出したところです。本当にその子供は可愛いのですから、子供が可愛いなら、結局逃げられるには、逃げられる元が必ずある。
女ばかりが悪いのじゃない。ですから逃げられる元を追求して、そしてやはり、家内と円満な夫婦生活がでけて、始めて可愛いという、その子供が立ち行くところのおかげが受けられるのです。信心でいやそうなんです。いくら子供が可愛い可愛いといったて、逃げた女房は帰っちゃ来ません。そこには、そこにはそういう原因、元があるんです。意地を、張らずに、そこに詫びるところは詫びる。
誤解があるところは誤解を解いて、円満解決のおかげを頂いてそしてその子のために、私は睦まじい夫婦生活というものがなされて行かなければならん、という様にです私どもは一切の上に、そういうような事が言えれると思うんです。過去のことには未練はないが、これからおかげを頂いて行きたい。そんな虫の良いことを言ったって、神様はおかげを下さらんのですよ。おかげだけは可愛い過去のことには未練がない。
死んだ子の年を数えるようなことを言う。いついつ、ああいうことがなかったなら、信心というのは、過去も現在も、これからも一切が生きていくという。一切が生かされていくという道なのが。金光様のご信心というものは。過去のことも、現在のことも、これからのことも、言うなら未来のことも、一切が生かされ通しに、生かされていくという。その生かすことの道を、教祖は教えておられると思うです。
ですから、本当に逃げた女房に、未練はないと言うても、たしかにこの子がお乳を欲しがる、この子が可愛いて、この子が可愛いならです。やはり先のその逃げた家内との、和解を願うこと。そしてハァ、ああいうことの原因でこう言うことで、こういう結果になったんだと。言うならば雨降って、地固まるところの、おかげを頂いた時に、始めて過去が生きてくるんです。
過去のことはもう、終りもしなければ、改まりもしない。過去にこういう、いうような難儀な問題が起った。今までに、こういうような不幸なことが続いてきた。もう過去の不幸なことは仕方がない。もう未練がない。これからは一つおかげを頂いていきたいと。お乳を欲しがるこの子が可愛いと言うてもです、やはり、それではこれからのおかげとても、頂いてはいけないという。先ず過去が生きてこなければ。
そこに私はですね。例えばそうした難儀といったようなものの追求と言うかね。その難儀の元というものを、先ず分からさせてもらい、その難儀の元を正して頂いて始めて、あの時は苦しいことであった。悲しいことであった。腹の立つことでもあった。様々な問題がです、生きてきて、そのことのおかげで、そのことのおかげで、今日があるのだ今日の信心があるのだというところにです、この子が可愛いと言わなくても、その子は、これからのおかげは、神様が請け合うて下さる。
母親が帰ってくりゃ、この子は無条件でやはり、お乳を与えると同じこと。そうでしょうが、皆さん。だからお互いの信心をです、じっとこう思うてみるとです。その歌の文句じゃないけれども、そういうような事になっておるのじゃなかろうか。死んだ逃げた女房に未練はないがね。お乳を欲しがるこの子が可愛いね。本当にこれからおかげを頂きたいならばです、過去のこと一切が私は生きてこなければ駄目。
過去のことが生きてくるところにです、これからは、もうこれやもう無条件に、神様が、生かして下さるんですよ。帰ってきた女房がです、あなたが私の言うことを聞かんけんで、もう子供にお乳を飲ませんなんて、言うはずはないですもの。帰ってきて夫婦の和解さへ出来りゃ、あなたも可愛かったけども、私も可愛かったんだということになってくるんです。もう無条件で、その子が育っていく。
この前の月次祭の御理解の中にございました。先ず一番、信心、信心によっておかげを頂かなければならない。信心によって、真に幸せになっていかなければならないために、教えを行じていくということは勿論だけれども、それはなかなか見易いことなんだけども、難しいように、皆が思う。今までの生活があまりにも、ややこしい生活ばっかりしてきておるもんだから、急に本当の生活に入ることが難しいように見える。
例えて極端に言うなら、嘘の生活ばっかりをしてきておるもんだから、本当の生活に入っていくということが、いかにも難しい事のように思う。だからその教祖の神様のおかげを受けられたことを、話に伝え残しておくのぞと、仰るような、そういう信心をです私どもが身に付けていくということが先ず、本当なんだけれども。皆んなが難しゅう言うなら、先ず一つ見易いところから、これだけは成就して欲しい。
神様が言うなら、謎をかけておられるようなこと。ハァ先生が今、あれを求めてござるんだなあと。その私はもとめに応じていくというか、答えていくだけくらいの信心はさせて頂きたいもんだ。それは例えて言うならば、お月次祭なら、お月次祭に、八時なら八時の御祈念に皆んながです。その今日はお月次祭、なら今日はお月次祭だというような気持ちでおればです。
朝の御祈念が、なんかならば眠かったから、その起きるのが、しるしかったと言えれるんですけども、夜ならそんなことはないはず、心掛け一つでは、キチッと時間励行で出来やあしないかと。お話を頂きよると、ハァ先生があれを求めてありござると、その一例に今日の、三日の親教会の大祭のことをお伝えした。どうぞ皆さん三日の日は、お参りして下さいよと。先生がその言わば求めてござるのだから、それに答える信心くらいのこと、いっちょも難しいことではなかでしょう。
まあたくさんそういう例はございましょう。教えを行ずることが難しいというならです、先ずそのへんのところからでも、神様の仰ることを、親先生が仰ることを、神様が仰ることだと頂いて、生きた人間が言いよるとじゃけんすぐはっきり分かる。それに答えて、そして自分のそのことは、言う事を聞こうとせずしておいてね。自分はキチッとした信心をしょうとせずしておいて、キチッとしたおかげを求める。
自分の願うことだけは、一生懸命に願うたところでです、それは本当のおかげに、なるはずはないじゃないかと、言った様な御理解を頂きました。でも私どもはですね。聞く所は聞く頂く所は先ず頂いてから、神様にもお願いをしなければです道は立たんです。道理に合わない。神様の言うことは聞かんなら、自分の言う事だけを、聞いて下さいというのではいかんです。そこから神様の働きを分からしてもらうようになるそこから教祖の神様の教えて下さる。
いわゆるおかげが教祖の神様が教えて下さることを、自分の身に付けていくと言う事によってですね。信心生活の楽しさ有難さがというものが分かってくるようになり、神様との交流が段々始まってくるようになり、言わば天地の大道といわれる。天地のその大道である。天地の道に出る事が出来る。天地の親神様のお心をお心として、自然の働きの中に、私どもが抵抗する事なしに、その事に取り組んでいく。
言うならば、そうした自然に起きてくる問題と本気で対決さしてもらって、そこん所を、信心で頂いていくと言う様な、生き方あり方の中から、愈々天地に繋がる道と言う道に出ることがでける。皆さ、ここの所に出るまでがですね。私は本当を言うたら、信心だと思うんですよ。天地の大道を闊歩する出ける生き方。それには先ず只今申します様なところから一つ信心を進めていかなければなりません。
そうして今朝から頂いております、その御理解をです、本当にそうだと皆さん合点されておかげを頂いていけなければなりません。信心は、逃げた女房にゃ未練はないが、お乳を欲しがるこの子が可愛いといったようなお互い、信心ではない。この子が可愛いならば、逃げた女房との和解を先ず、求めることに、どこに逃げられる元があったのかと、いうことを追求して、夫婦円満のおかげを頂かして貰い、そこには家内は無条件でその子のお乳を与えるだろう。
私どもが過去において、様々な難儀の事は、もう未練はないから、これからのおかげを頂きたい。これからのおかげを頂きたいと、こう私どもがその願っては丁度もう過去の事はもう諦めた。これからのおかげだけは頂いていきたい。それでは大変な無理がいる。いつも、この子が可愛い、この子が可愛いでしまえるなら、おかげ頂きたい、おかげ頂きたいでしまえるなら。そう言う事よりも、過去の事が生きてくる。過去の問題が生きてくる。その事のおかげでと言う事になってくる時にです。
家内が帰ってくれば、その子は、もう無条件で育ってくれるように、そこん所が分かればです、神様は無条件で、その子を育てて下さる。そこの先の、その先の生き方に、私が今日、申して、後半に申しております所のです、親先生の求めてござることに、答えていこうとする態度、姿勢が必要である。同時に教祖の神様が、身をもってお示し下さって、おるところの御教え。
本当に御教えが自分のものになっていくことの楽しみ、次から次と起きてくる成り行きの中に、起きてくる一つの問題と、私どもが本気で取組ませて頂いて、そこんところをいい加減にせずに、実意丁寧、そこんところを取組んでいく。そこにいよいよ天地との繋がりというか、天地の大道と言うか、天地の道へ私どもが出ることが出来る。そこから私は本当の信心生活、天地に通う道。所謂、天地が自由になると仰せられるところの、天地がいつもバックである。
天地が私どもの、いつも味方である、という様なです結構なおかげが、おかげの道が開けてくるのです。それに私どもがそういうおかげが頂きたい。頂きたいというね。そういう道があるならば、そういう道に出たい。出たいというだけでは出られない。先ずそれにはね。過去のことが生きてこなければ出来ません。過去の一切が生きてこなければ、過去にああいうような事があった。ああいう難儀な問題があった。
けども、これはもう致し方がないと言うて葬らずに、そういう難儀な元というものを、私どもが追求していかんとですその元を断つことがでけん。そこから私はおかげをおかげと言わんでもです神様が、無条件にその子を育てて下さる。私どもの言うなら、良い運命を育てて下さる道が開けてくるのです。どうでも一つ、そのへんのところを本気で、よぉうく一つ考えてみて下さいね。
一遍その歌の文句を、皆さん知っておられるでしょうから、その歌の文句をいっぺん繰り返し、繰り返しして御覧なさい。そしてそう言う事ではいけんのだ。逃げた女房に未練はないと言わずに、さあ未練はないかも知れません。けどもこの子は可愛いお乳を欲しがる、この子が本当に可愛いならばです。何故逃げられたかという元を追求して。そして、その逃げられた女房との和解がでける所のおかげを頂いて。
過去の難儀との和解がでけて、そしてそこに言うならば、雨降って、地固まるというおかげを頂いて、これからのおかげを頂いていかなければいけんのです。信心をしょっても、どうもその歌の歌詞にあるようなです、これからのおかげだけを欲しい。これからの、もう、これからの、これからのことばかり言っておるようなことではです、それは成程まあ貰い乳くらいなら頂けるかも知れませんかね。
けどもそれでは、あのそれこそこの子が可愛いじゃないですか。この子が本当に無条件で育て上げるおかげを頂くために。これからのおかげが本当に無条件でです。天地大道にでも出られるようなおかげを頂くためにです、本当に信心が楽しゅうなるためですね。私が今申しました様な所をです、本気で行じさせて頂き、本気でそこん所を、分からせて頂かなければいけないと思うですね。
どうぞ。